明治維新から昭和初期(昭和10年代)まで70年ほどかけて築き上げてきた丸の内地区のインフラは相当充実したものでした。それゆえ、連合軍は占領後の本部をこの大丸有地区に置くことを想定し、空襲でも壊滅的な打撃を与えないようにしたといわれています。戦後、連合軍総司令部は第一生命ビルにマッカーサー総司令官が入ったほか、丸の内地区の多くのビルを接収します。しかし、この接収により洋式トイレや水道といったインフラが整備されるという皮肉な副産物も生まれます。いまでいう、“外圧”といえるかもしれません。一方で、敗戦直後の接収により丸の内はオフィスビル不足となり、各所の改修工事で急場を凌ぎました。そして、講和条約が結ばれた1950年代に入ると戦後復興が本格化。1959年には「丸の内総合改造計画」が決定され、次々と高さ100尺(31m)のオフィスビルに建て替えられていき、高度成長時代に向けたインフラ整備が急ピッチで進んでいきます。またそれと併せて、南北に通っていた2本の裏通りが拡幅され、丸の内の代表的な街並みといえる現在の仲通りも完成します。
取材協力:千代田区立日比谷図書館